ある織物の行くえ 白洲正子さん

友人のH君から参考のためと言いながら白洲正子さんが寄稿したという文章の写しをくれました。以前?と言っても1970年代十日町産地が好景気に沸いていたころの雑誌らしいのですがかなりT産地に対し辛辣な、いや言い換えれば今日のT産地の現状を予測していたのかもしれないほどズバリ言い当てているのです。

白洲正子さんは、「T町といえば、だれでも知っているところで、私も一度はたずねてみたいと思っていたが、さて、そこの製品は、結城や大島のようなはっきりした特徴はなく、だれも、しかとは答えられない。」と所謂T町がモノマネ産地であることを痛烈に批判しています。

さらに「戦前は明石で知られた町だが、いまは独特の織物はなく、漠然と、お召しのようなもの、紬のようなものを作っているという。それだけに、よけいこの目で確かめたかったのだが、行って見てがっかりした。」と述べています。

T町というと独自の商品を持たず流行に乗ってきた町であり、時の織物協同組合の青年部会が活発に行動を起こし、デパート展開を始めとして600億円を超える販売額を達成し名実ともに全国に名が売れた産地でもあります。

そして白洲正子さんは「伝統織物を現代に生かして、うんぬんといううたい文句と、はでな宣伝のパンフレットばかりで、肝心の物は見当たらない。いや山と詰まれた製品はあっても、それらは顔を持たない人間に似て、まったく特徴がないのである。」と手厳しく批判しています。

しかし白洲さんは「私はT町の揚げ足をとりたいのではない。先祖が残した美しい遺産を捨てるばかりか、その伝統の上に乗って、やたら突っ走る近ごろの傾向を悲しく思うのである。(中略)が、天は二物を与えずとはよくいったもので、職人が芸術家になったために、だめになることがあり、作家がなまじ技術を覚えたために、うぶな美しさを失うこともあるというぐあいで、せっかく力を入れても、これがなかなか両立しない。」とも述べてさらに、

「私にできるのは、せめて両者のあいだに立って、技術と理解を結びつけるプロデューサーの役目だ。新しい工芸が生まれるためには、長い年月を要するであろう。がいつの日か、それは可能になると、私は信じて疑わない。福田恆存さんの声明ではないが、私のめざすところも、その伝統形成の礎石となることであります、ので、ものを愛するというのはひたすら忍耐にあることを、このごろになってようやく知りそめている。」と結んでいる。

この文章にはおそらく賛否両論があろうかと思います。それぞれの職業や立場によってもこれだというものはないと思います。私は「意志・意欲・情熱・浪漫」を持ち続けながら「からむし」という今まで経験しなかったことを生涯のビジネスとしてとらえ、「衣・食・住」にチャレンジできないか日々研究し続けています。

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