「きもの十日町 50年の歩み」より 越後布時代 最古の越後産麻布
越後の麻織物が、いつ頃から始まったか、明らかではないが、現存しているものは、奈良の正倉院に所蔵されている麻布である。
正倉院というのは、東大寺に大仏を建立された聖武天皇が亡くなられたとき、光明皇后が天皇の遺愛の品々を東大寺へ寄進され、それを保存するための校倉式の建物である。
中には大仏の開眼供養に使われた品物などを含め、服飾、調度、文具、武具、遊具、絵画など内外のすぐれた美術工芸品が所蔵されて古代文化の宝庫といわれ、天平時代の宮廷や貴族の華麗な生活を伝えている貴重な文化遺産である。
昭和二十八年、正倉院の調査にあたっておられた大賀一郎博士によって未整理の所蔵品の中から墨書銘のある越後布が発見された。
天平勝宝五年(753)三月二十九日に東大寺で行なわれた仁王絵に使った屏風を入れる袋の裏地で、生地はからむし(苧麻)で織った麻布である。今から千二百年以上以前の製品であって、幸いなことに、越後国久疋郡夷守郷の戸主・肥人呰麻呂という者が、労働負担の代納物である庸として貢納した旨の墨署銘が残っている。
ここに書かれている久疋郡は現在の頚城郡で、夷守郷は「ひなもり」と読み、旧美守村(ひだもりむら)、現在の中頚城郡三和村である。
貢納者の肥人呰麻呂は「ひのひとあざまろ」か「こまひとのあざまろ」と読む事が出来る。もし「こまひと」と読むならば「肥人」は「高麗人」で朝鮮半島からの気化人か、その子孫であるとも考えられる。
日本の織物の歴史にとって、五世紀から六世紀は大きな変革期であった。当時の朝鮮半島をめぐる国際情勢の緊迫化にともなって大陸からの帰化人の来住が一段と多くなり、帰化人たちのもたらした先進の織物技術によって日本の織物も長足の進歩をとげた。
渡来者が土着したのは畿内だけでなく、地方の国府やその周辺にも移住して養蚕やハタ織りの技術を教えたといわれている。 当時の越後国の国府の所在地は異説があってさだかでないが「古代には夷守村近く中頚城郡の山間地に越後国府があったという説も有力なので、この地方が大陸渡来の技術者によって織物の技術革新がおこなわれていた可能性も少なくない。