「きもの十日町 50年の歩み」より 越後布時代 伊乎乃(いおの)郡と波多岐(はたき)庄

 越後布というのは、古代から中世にかけて越後国で生産された麻織物のことで、越布とか越白、白布とも呼ばれ、室町時代以降になると「ゑちご」といっただけで越後布をさすほど有名になった。
 越後布の素材は、「からむし」の靭皮繊維を績いだアオソを織り上げたもので正倉院所蔵の墨書銘のある越後布も麻布である。
 越後布といっても、この麻布は越後国一円から生産されていたわけではない。主産地は魚沼や頚城地方の雪深い山間地帯に限られていた。

 「越後風俗志」には「苧麻は、古老の言に、上古、黒姫山におこり、頚城、魚沼、中郡蒲原の山あたりに皆産す。なかんずく妻あり、さばし谷をもって名産とせり」と書かれ、妻有地方と鯖石谷などが生産の中心地であったと伝えられている。

 魚沼や頚城地方が越後布生産の中心になったのは、この地方の気候風土が「からむし」の成育に好適な条件を備えていたからである。

 「からむし」は、広く山野に自生していたのではじめは野生のものを採取して使っていたが、越後布の声価が高まり需要が増大すると、野生のものだけではまかないきれないことと、高級化への要望にこたえ、糸質の向上を図るために、肥沃な土地に植えて肥培管理を行なうようになった。

 「からむし」という植物は、生育期にかなりの雨量を必要とし、湿度が高く、強風が少ないところのものがすぐれ、温暖地よりも寒冷地を好むので、魚沼地方はその適地であり、ここで生産された越後の「からむし」は、近世にいたり東北地方のものが出回るまでは、越後の代表的な産物として量的にも質的にも高く評価されていた。市内に、麻畑、浅(麻)ノ平、松代町に苧ノ島などの地名が残っているのは「からむし」を栽培した名残りであろう。

 平安時代に編纂された「和名類聚鈔(和名抄)」によると、魚沼郡の古名が「伊乎乃」と書かれている。「いおの」という意味には諸説あるが「苧(お)」の多いところという意味をもつ地名だという説もある。また、妻有郷の「妻在」という地名が始めて文献に現れるのは、今から六百五十年ほど前からであり、それ以前は波多岐庄と呼ばれていた。

 この波多岐庄の語源は、波多はハタを織る織機の器具のキからハタキと名付けられ、伊乎乃も波多岐も共に昔から土地柄が盛んな地域名になったといわれている。

 波多岐庄の荘園領主として最初にこの地を領有したのは、藤原氏の一門である九条家であり、その氏寺の東北院に、波多岐庄から綿千二百両が納入された記録が残っている。綿というのは、木綿ではなく山繭からひいた真綿のことである。

 東北院は、長元三年(1030)に藤原道長の娘で、一条天皇の中宮になった上東門院彰子の持仏堂として建てられた寺である。王朝文化の華とうたわれた紫式部が仕えたのが中宮彰子で、式部は彰子に宮仕えしながら「源氏物語」を書いているので、波多岐庄は間接ではあるが、「源氏物語」とかかわりがあったわけである。

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