「きもの十日町 50年の歩み」より 織物の起原(2)
日本の縄文時代の衣料は、編み布が一般的だったらしく、この地方の縄文時代の遺跡からも編み目の圧痕がついた土器片が幾つか発見されている。
例えば、中魚沼郡中里村の向原遺跡と芋川原遺跡から今から約四千年前の縄文時代中期末か後期初頭に作られた土器の口縁近くに編み目の痕跡が認められる土器片が四個出土している。
新潟県南部の山間地帯には、アオソ、アカソ、イラクサなどの繊維で編んだアンギン(編衣)という袖なし、前掛け、背中あて、ズキンなどが最近まで残っていた。地域によってはマギン、マンギン、バトなどと呼ばれ、古い技法を伝えるものだといわれている。
鎌倉時代末期、時宗の開祖一編上人の聖絵などに描かれている阿弥衣と同じものであり、この地方では寛政十二年(1800)に書かれた幕府の巡検使、金沢瀬兵衛の「越能山都登」に田沢村の農夫が着ているあみ衣をスケッチして、その製法をくわしく書き留めている。
鈴木牧之の「秋山紀行」(文政十一年ー1828)の中に、秘境秋山郷の人々が山稼ぎにアンギンを着ていたことを記録しているなど、かつては農民の作業着として広く使われていたらしいが、江戸時代末期から明治の中頃にその製法が杜絶してしまった。
たまたま昭和二十九年、秋山郷においてアンギンが発見されて以来その存在が脚光を浴び、復元の研究が進められ、ようやく製法が解明されるにいたった。
制作用具は、アミアシ、ケタ、コモツチだけの簡単なもので、俵編みに似た方法で編んだといわれ、用具は十日町市博物館に展示されている。
一方、織物は、現存する世界で最も古い遺品は、今から約六千年前のエジプトのファイユム遺跡から発見された亜麻布だといわれているように、織物もまた長い歴史をもっている。
西アジアに起原をもつといわれている織物の技術は、時代と共に西進して中国に早くから伝えられ四、五千年前から苧麻布や絹織物が織られていることが明らかになっている。シルクロードの分岐点である敦煌から出土した絹の紗布などは現代の織物に少しも劣らないほど精巧で、古代中国の製織技術のすばらしさを物語っている。
中国文化の影響を受けた日本では、所謂「魏志倭人伝」によると、三世紀には「禾稲(いね)・紵麻を種え、蚕桑・緝積(しゅうせき)し、細紵(麻織物)・縑(かとり、絹織物)・緜(めん、まわた)を出す」と書かれており、すでに麻織物と絹織物が織られ当時の人々の着物は、男性は横幅衣(おうふくい、幅広い布を体に巻いたもの)で女性は貫頭衣をまとっていたとしるされている。
弥生時代の遺跡がある静岡県の登呂遺跡からは、炭火した布や、原始的な織機の部品が多数出土して「魏志倭人伝」の記述を裏付けている。