「きもの十日町 50年の歩み」より 越後布時代 越後から商布(たに)千端
延喜五年(905)藤原忠平らによって撰進された「延喜式」は、律令の施行細則で、平安時代の制度や宮中の儀式などを記録した貴重な史料である。その中に越後布のことが記載されている。
各地の特産品を、地方官に命じて買い上げさせた「交易雑物」のなかから「商布(たに)千端。漆五斗・櫑子(らいし)(木製の容器)四合、履料牛皮(はきものの材料にする牛皮)八枚」が記録されている。
ここに出てくる商布は「たに」と読み、「からむし」で織った「手布(たぬ)」だといわれている。
商布というのは、政府が民間との間で取引を行なった際の支払手段として貨幣の代わりに使った物品貨幣で「交易雑物」として国庫に納められ、必要に応じて貴族や官人・寺社などに給付されるものである。
当時の麻布の生産は東国が中心で、特に常陸国など関東地方が盛んであり、越後国の千端は、近隣の諸国に比べても最も少ない数量である。
このことは、越後布の生産地が越後国全域ではなく魚沼や頚城地方など限られた地域に限定されていたためであろう。
越後布は、他国に比べて数量的には多くはなかったが、品質がすぐれ、高級織物としての声価は抜群であった。
「続日本紀」には、奈良時代に宮中で催された法華八講絵の導師への礼物として越後布が贈られたり、鳥羽上皇の百日念仏の結願(けちがん)の日に、僧侶に対して越後布を布施するなど、皇室ではしばしば施物として越後布が使われ、その品質が高い評価を受けていた。
だから、平安時代には、高級織物である越後布を、一般庶民が着用するのを禁じた法令も出されている。
平安時代の中期の法制書である「政事要略」の長保元年(999)の法令に、近年僧尼や一般人の服装が華美になり、綾羅などの禁色(位階の上位の人意外に使う事が禁じられている色や模様)に違反している者があるので慎むと共に、越白(越後布を雪晒しした白布)も高級品であるから、役所や貴族の下働きなど一般庶民は着用してはならないという禁止令がのっている。
この法令はよく守られなかったらしく、翌長保二年にも重ねて越白着用禁令が出されているのはそれほど越後布の人気が高かったことの現われとも受け取る事ができる。