「きもの十日町 50年の歩み」より 越後布時代 贈答品として珍重された越後布

 越後布は、多くは夏の衣料として使われ、品質の良さで平安貴族や、上流社会の人々に愛用されたので、贈答品としても珍重されていた。

 建久三年(1192)、鎌倉に幕府を開いた源頼朝が、征夷大将軍宣下のために京都から下向した勅使が帰るとき、餞別として「越布千端」を贈ったことが「吾妻鏡」にのこっている。

 越後守護の上杉家でも、越後布を各方面の贈答用に使っている事が記録に残っている。

 応永二十九年(1422)六月、上杉朝方は将軍足利義持に「越後布車一両」を贈り、文明十八年(1484)八月、上杉房方は足利義尚将軍に「越後布三十端、平貫(ひらぬき)三端、細美三端」そのほかを贈っている。

 永正の乱で、守護上杉氏を倒して越後の政権を握った守護代の長尾為景、晴景父子もしばしば越後布を使っており、晴景に代わって越後国主の座についた上杉謙信はキメこまかに越後布を贈っている。謙信は天文二十二年(1553)と永禄二年(1559)の二回にわたって上洛しているが、二度目には正親町天皇に拝謁して正四位上左近衛権少将に任じられ、天盃と御劔を賜った。

 この時、御礼の品として越後布五十端そのほかを献上している。

 当時の宮中に仕えた女官の筆になる「御湯殿上日記」には、上杉謙信がしばしば越後布を宮中に贈っていることが書かれている。

 永禄三年六月には「えちごなかをよりゑちこ二十反まいる」とあり、同じく永禄七年八月にも「えちこ二十たんしん上ふん」が届き「女中すゑまで御くはり」を受けた事や、同九年十一月には「ゑちこいろいろ七千疋」が贈られたと記されている。

 室町時代には、越後布が幕府の公式の礼服用に指定されていた。幕府の政所執事を勤めた伊勢家の故実書には「すはう(素襖)はかま(袴)ゑちご布の事、六月、七月両月まで也。四季ともにゑちご被用候事ハ、御免なくしては不可有之」と書かれており、素襖、袴などの礼服は六月と七月までは越後布を使うことになっていたが、四季ともに用いることは許可が必要であった。

 これによって室町時代の武家の式服は越後布の生地を用いる事が幕府によって定められ、越後布は「ゑちご」というだけで通用するほど有名になっていたことがわかる。

 南北朝時代には、越後国も戦乱に巻き込まれ、越後布の生産も思うにまかせなかったであろうが、室町時代になると再び脚光を浴びて生産も次第に増加したものと思われる。

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