武家の制服にもなった十日町越後ちぢみの歴史と原料「からむし」
平成24年1月9日
越後の麻織物がいつ頃から始まったのか、明らかではないが、現存している最古のものは、奈良の正倉院に所蔵されている麻布である。
天平勝宝5年(753)3月29日に東大寺で行われた仁王会に使った屏風を入れる袋の裏地で、生地はカラムシ(苧麻)で織った麻布である。
今から1,250年以前の製品であって、幸いなことに越後国久疋(くびき)郡夷守(ひなもり)郷の戸主・肥人砦麻呂という者が、労働負担の代納品である庸として貢納した胸の墨書名が残っている。
越後布というのは、古代から中世にかけて越後国で生産された麻織物のことで、越布とか越白、白布とも呼ばれ、室町時代以降になると「ゑちご」といっただけで越後布をさすほど有名になった。
越後布の素材は、カラムシ(苧麻)の靭皮繊維を糸に紡いだアオソ(青苧)を織り上げたもので正倉院の墨書名のある越後布も麻布である。
越後布といっても、この麻布は越後一円から生産されていたわけではない。主産地は魚沼(十日町・塩沢)や頸城地方(松代・高柳)の雪深い山間地帯に限られていた。
魚沼や頸城地方が越後布生産の中心になったのは、この地方の気候風土がカラムシ(苧麻)の生育に好適な条件を備えていたからである。
越後布は、多くは夏の衣料として使われ、品質の良さで平安貴族や、上流社会の人々に愛用されたので、贈答用品としても珍重されていた。
越後守護の上杉家でも、越後布を各方面の贈答用に使っていることが記録に残っている。
越後布、は越後の代表的な特産品として知られているが、それよりも素材の青苧(アオソ)という糸のほうが、各地の織物の原料として京都や大阪方面に出荷され、莫大な産額をあげていた。
魚沼地方の青苧は、信濃川と魚野川の船便で小千谷に集荷され、そこから馬に積んで柏崎か直江津へ出た。ここから専用の苧船によって越前の敦賀か小浜に陸揚げされ、陸路琵琶湖へ出て再び舟で大津へ運び、京都を経て大阪の天王寺青苧商人の手へ渡ったと言われている。
特に上杉謙信、景勝の2代にわたって財政力強化のため積極的な殖産興業政策がとられ、青苧と越後布に手厚い保護と奨励が加えられ上杉家の重要な財源となった。
なかでも景勝の家老、直江兼続は上田衆の出身で、のちに百姓大名と呼ばれたが、郷里の魚沼地方で生産されている青苧に着目して、品質を向上させるために上畑にカラムシを栽培することを奨励することによって、青苧と越後布の面目を一新させたと言われている。
在来の越後布に技術的な改良を加え、越後ちぢみという新しい商品開発に成功したのが堀次郎将俊こと明石次郎だと伝えられている。
しかし、それも口碑伝説のたぐいで、確実な史料が残っていないので真偽のほどは明らかではない。越後縮に関する古い記録に「績麻録」という紀行文がある。
「績麻録」は越後ちぢみの起源を次のように伝えている。
「寛文年中(1673~1683)、播州明石の浪人、明石次郎が妻と二人の娘を連れて小千谷に来住し、生活に困ったので、親子3人で故郷にいたころ織っていたちぢみを織ったところが、延宝年間(1673~1681)評判になり、近隣の婦女たちも習い覚えてこの地方に広まり今は越後の特産品になった」と。
播州明石は、昔から強撚糸で織った木綿の明石本ちぢみの産地だから、その技術を麻織物に応用したと思われる。
明石次郎の改良は、従来の平織ではなくヨコ糸に強い撚りをかけて織ることによって布地にクレープができ、さわやかな地風になったことと、絣や縞などの模様を織りだす技法を伝授したと言われている。
元禄時代になると、越後ちぢみは幕府の御用ちぢみの指定を受け、武家の裃や帷子などに広く使われるようになり、特に5月5日の端午の節句には、菖蒲帷子と称して越後ちぢみを着て登場する習わしとなるなど、武家の制服になり需要を大きく伸ばすことになった。
寛永8年(1631)には、わずか五千反(白布)内外の生産が、明和(1764~1671)時代には四万反となり、最盛期の天明(1764~1674)時代には二十万反の生産をあげるに至ったのである。