「きもの十日町のあゆみ」より 越後布時代 青苧座と上杉氏
越後布は、越後の代表的な特産品として知られているが、それよりも素材の青苧という糸のほうが、各地の織物の原料として京都や大阪方面に出荷され莫大な産額をあげていた。
この青苧の集荷から輸送、販売までの流通面は、青苧座と呼ばれる組織によって一手に独占されていた。座というのは、商工業者や運輸業者の特権的な同業団体で、朝廷や貴族、自社などを本所(座の支配者)にいただいて座役(税金)を支払う代わりに、その権威によって販売の独占権や課税免除権などの特権を保証された排他的な組織である。越後の青苧座は公家の三条西家が本所で、その支配のもとに、地元越後においては府中(直江津)に本座があり、本座に所属する商人(本座衆)によって売買が独占されていた。
魚沼地方の青苧は、信濃川と魚野川の船便で小千谷に集約され、そこから馬に積んで柏崎か直江津へ出た。ここから専用の苧舟によって越前の敦賀か小浜に陸揚げされ、陸路琵琶湖へ出て再び舟で大津へ運び、京都をへて大阪の天王寺の青苧商人の手に渡ったといわれている。
しかし、応仁の乱や越後の永世の乱などで青苧役んぼ納入が滞り、青苧座の実権は三条西家から次第に守護代の長尾氏の手に移った。
特に上杉謙信、景勝ノ二代にわたって財政力強化のために積極的な殖産興業政策がとられ、青苧と越後布に手厚い保護と奨励が加えられ上杉家の重要な財源になった。
中でも景勝の家老、直江兼続は上田衆の出身で、のちに百姓大名と言われたが、郷里の魚沼地方で生産されている青苧に着目して、品質を向上させるため上畑に「からむし」を栽培することを奨励することによって、青苧と越後布の面目を一新させたといわれている。
兼続が米沢藩に著したといわれる「四季農戒書」に
正月 家主娘女房は糸をとり、苧(お)をひねり、男子どもの着類を稼ぐべし
二月 朝夕鋤鍬をもってからむしのなえを取植しむべし
三月 麻畑をうない、残なく打うなうべし
四月 からむし畑へ近辺の山々より萱をきりかけ、家ちかくならば風をうかがい焼べし
七月 からむしを取るべきなり・・・・・からむしは田に出来る米にまさりたり
この文章からも兼続のからむしにかけた情熱のほどがしのばれるし、その収入は米よりも多かったのでからむしの奨励に力をいれたのであろう。
上杉景勝は、慶長三年(1598)、豊臣秀吉によって越後から会津へ移封され、代わって越前北ノ庄の城主、堀秀治に越後国が与えられた。
秀吉は、全国の軍事、経済上の要地を直轄地として手中に収めただけでなく、大名の領地内にも蔵入地(直轄地)を設けてそこの収入を上納させていた。
上杉氏に代わった堀氏に越後四十三万八千五百石の知行充行状(あてがいじょう)を与えたが、その中に
1、五千石、御蔵入 但越後布出所 同其廻
と書かれている。即ち越後のなかで越後布の産地だけは秀吉自ら握っていたのである。
この御蔵入地は、従来「越後布出所」は船積みする柏崎とその周辺とされていたが、検地帳などの研究によって、豊臣政権の直轄地に指定されたのは、越後布産地の魚沼地方であることが明らかになっている。
青苧と越後布が果たした経済的な役割はそれほど大きかったのである。